BAD BRAIN

自作の音楽とかを出すブログ

アドベンチャーゲームは作者=神であり、神=フィクション保証人?

ゲームという作品のフィクション性は、何を起源としているのだろう?

ADV(アドベンチャー)ゲームとは作者にとっては人形遊びに過ぎない。プレイヤーとはその人形の世界の人物になりきる人であり、そういった形式で人形遊びに参加する存在。

あくまでも遊びであり現実とは関係がない。ゲームのキャラクターが「この世界は存在する」などとセリフを発しても、結局そのセリフは作者の戯れであり、プレイヤーからすれば虚構である。

僕の個人的見解では、作者が存在するという事実がフィクションをフィクションたらしめているのだと思う。

 

では、仮に作者が存在しないADVゲームがあるとしよう。

そのゲームには特徴もなく、他のADVゲームと比べても特筆するようなストーリー性はない。

主人公はプレイヤーであり、主人公以外の登場キャラクターはNPC(ノンプレイヤーキャラクター)である。

見え透いた苦難、都合の良いストーリー、陳腐な感動、予定調和の達成感。現代のプレイヤーに対し、特に新鮮味を与えることのない普遍的な作品。いわゆる凡ゲーだ。

別のフィクション作品と並べて語る事になんら違和感を感じない作品である。

 

だが、この作品にはフィクション性を肯定する根拠が無い。

なぜなら、『このゲームはフィクションです』と確信を持って言える人間が存在しないからだ。

もちろんプレイヤーから見れば一目瞭然、このゲームが現実に対して直接的影響を与える事など有り得ない。だが、確実にフィクションだと断言できない限りそれは推測の域を出ない。作者という存在の欠如により、神を持たないゲーム世界の安全性は危うくなる。

創造されたのでは無いとすれば、自然発生の可能性も当然ある。その場合は、発生の源となった「何か」が作者であると言い張ることも出来なくはないだろう。

しかしそれも推測であり、自然発生した事実を立証できない限りは一つの可能性に過ぎない。それに、その「何か」がフィクション性を肯定出来るかどうかも分からない。

ゲームにとって、作者は神・根拠であり、必要な存在である

フィクション性とは脆く、肯定されなければ虚構かどうかも認識できない。

もし現実にこのような作品があれば、作者という存在は作品に関わる者達によって作られるかもしれない。

いや、作られなかったとしても、プレイヤーが『このゲームはフィクションである』と盲目的に信じ、疑うことを止めるかもしれない。

 

 

 

・・・あれ?だとしたら・・・

作者はフィクション性とは関係ないかもしれない。ここにきて、まさかの新事実発覚である。